おばあちゃん弾劾論──『とどかないこえ』における罪悪感の不当転嫁と被害者ポジションの簒奪
2026/1/22
序論:誰が被害者か
NHK教育番組『ざわざわ森のがんこちゃん』のエピソード『とどかないこえ』は、一見すると「困ったときは誰かに相談しよう」という穏当な教訓を伝える物語である。
しかし、本稿において私は、この物語の根底に横たわる構造的不正義を告発せねばならない。
すなわち、バンバン氏は本来いかなる罪悪感も負うべきではなかったという事実である。
物語を精査すれば明らかになる。すべての悲劇の起点は、バンバン氏の行動ではない。おばあちゃんの軽率かつ無謀な行動である。にもかかわらず、物語はバンバン氏に罪悪感を負わせ、森を彷徨わせ、カッパに説教され、他人の家に相談に行かせる。
この罪悪感の不当転嫁を、私は断じて看過できない。
https://edu.web.nhk/school/watch/bangumi/?das_id=D0005130188_00000
第一章:木の実事件の経緯
まず、事実関係を確認しよう。
バンバン氏は森で木の実を拾い、それをルンルン氏に見せた。テキストはこう記録している。
「『そうだ! ルンルン、これ見てみな』。バンバンは、トゲトゲのある見たこともない木の実(み)をルンルンに見せました。『今日(きょう)、森でひろったんだよ』。その木の実をテーブルの上においていってしまう二人」
ここで注目すべきは、バンバン氏の行動である。氏は木の実をルンルン氏に見せたのであり、おばあちゃんに食べさせたのではない。そして、木の実をテーブルに置いて立ち去った。
次に何が起きたか。
「そこへおばあちゃんがやってきました。木の実を見て、『これ、りょうりのかくしあじによさそうな木の実だねえ』。でも、『カプッ』とかじると、『ウェッ! なんだい、まずいねえ。こりゃ、りょうりにはつかえないねえ』」
読者諸賢、この場面を冷静に分析していただきたい。
おばあちゃんは、誰の許可も得ず、出所も確認せず、テーブルの上にあった見知らぬ木の実を「料理の隠し味によさそう」と即断し、そのまま口に入れたのである。
第二章:おばあちゃんの過失
ここで、おばあちゃんの行動を詳細に検証する。
第一の過失:軽率な判断
「これ、りょうりのかくしあじによさそうな木の実だねえ」
見たこともない、トゲトゲのある木の実を見て、「料理の隠し味によさそう」と判断する根拠は何か。おばあちゃんは植物学の専門家なのか。毒物学の知識があるのか。否、何の根拠もなく、外見だけで食用可能と断じたのである。
第二の過失:無謀な摂取
「『カプッ』とかじると」
仮に「よさそう」と思ったとしても、なぜいきなりかじるのか。まず孫に「これは何か」と尋ねるべきではないのか。あるいは、少量を舌に触れさせて様子を見るといった慎重さはなかったのか。
第三の過失:嚥下の謎
「『ウェッ! なんだい、まずいねえ』」
ここで決定的な疑問が生じる。なぜ飲み込んだのか。
「まずい」と感じた時点で吐き出せばよかったのである。にもかかわらず、おばあちゃんは嚥下した。この判断の根拠は、テキストからは一切読み取れない。
以上の三重の過失——軽率な判断、無謀な摂取、不可解な嚥下——により、おばあちゃんは自ら毒を体内に取り込んだ。
これはバンバン氏の責任ではない。100%おばあちゃんの自己責任である。
第三章:医療拒否という虐待
物語はさらに深刻な展開を見せる。
「『ばあちゃん、だいじょうぶか?!』とおどろくバンバンに、『ううう…、ら、らいじょぶ…』とおばあちゃん。バンバンは気がつきました。『その実(み)たべたのか? もしかしてそのせいで? だれかよぼうか?』」
バンバン氏の対応は完璧である。症状を観察し、原因を推測し、外部への救援要請を提案した。これ以上何ができようか。
ところが、おばあちゃんの反応はこうだった。
「『おおげさにしないでおくれ。きっと、ねたらなおるよ。しずかにしておくれ』」
読者諸賢、これは医療拒否である。
毒物を摂取し、体調を崩しているにもかかわらず、「寝たら治る」という根拠なき楽観に基づいて、孫の救援提案を却下した。
その後、さらに事態は悪化する。
「『ばあちゃん、おいらどうしたらいいんだよう。ばあちゃんってば!』。すると、『ちょっろ、しるかにしれおくれ! あたまがガンガラするんじゃよ。あんたは、あっちにいっとくれ!』」
「あっちにいっとくれ!」
心配する孫を突き放す。これを精神的虐待と呼ばずして何と呼ぶのか。
自らの軽率な行動で体調を崩し、孫の救援提案を拒否し、挙げ句の果てに「あっちにいっとくれ」と追い払う。にもかかわらず、バンバン氏は「おこってんのも、おいらのせいなんだ」と自責の念に駆られる。
この罪悪感の不当転嫁こそ、本エピソードの核心的問題である。
第四章:思考実験——赤ん坊とビリリンコの実
ここで、一つの思考実験を行いたい。
状況を変えてみよう。木の実を持ってきたのがバンバン氏ではなく、赤ん坊だったとする。そして、その木の実を父親が勝手に食べて体調を崩したとする。
この場合、赤ん坊は罪悪感を感じるべきだろうか。
答えは明白に「否」であろう。赤ん坊には、木の実の毒性を判断する能力がない。そして何より、食べたのは赤ん坊ではなく、父親の自由意志による選択である。
では、なぜバンバン氏の場合は異なるのか。
バンバン氏は確かに赤ん坊ではない。しかし、氏もまた木の実の毒性を知らなかった。ヒポ先生の授業で初めて「ビリリンコの実」の危険性を知ったのである。そして何より、食べたのはバンバン氏ではなく、おばあちゃんの自由意志による選択である。
構造は完全に同一である。にもかかわらず、バンバン氏は罪悪感に苛まれ、赤ん坊は(おそらく)免責される。
この差異はどこから生じるのか。
私は、年長者への敬意という規範が、因果関係の論理的分析を歪めていると考える。
バンバン氏は「おばあちゃん」という存在に対して、無条件の責任感を抱くよう社会化されている。おばあちゃんが苦しんでいれば、その原因が何であれ、孫は心を痛めねばならない——このような規範が、バンバン氏の認知を歪め、本来負うべきでない罪悪感を内面化させたのである。
赤ん坊の場合、このような規範的期待が存在しないため、因果関係が正しく認識される。「赤ん坊が持ってきた→父親が勝手に食べた→父親が悪い」という論理的帰結が素直に導かれる。
しかしバンバン氏の場合、「孫が持ってきた→おばあちゃんが食べた→孫が悪い」という論理の飛躍が、年長者への敬意という規範によって正当化されてしまう。
これは認知的不正義である。
第五章:不要だった苦難
物語の教訓は「困ったときは相談しよう」である。
カッパさんはこう述べた。
「そういうときはな、『たすけて』っていってみるっちゃよ。だれかにそうだんしてみたら、なにかかわるかもしれないっちゃ」
そしてバンバン氏は、ヒポ先生への相談は中断され、ラッパーには「またこんどな~!」と去られながらも、諦めずに相談相手を探し続け、最終的にがんこちゃんのおばあちゃんに辿り着いた。
「『ビリリンコの実(み)のどくによくきく薬草(やくそう)がうちにあるんだよ』」
めでたし、めでたし——と言いたいところだが、ここには重大な問題が潜んでいる。
確かに、バンバン氏の粘り強い相談の試みは称賛に値する。失敗しても諦めず、最終的に解決に至った。「困ったときは相談しよう」という教訓は、この意味では正当である。
しかし、より根本的な問いがある。
そもそもバンバン氏は、相談する必要などなかったのである。
おばあちゃんが「だれかよぼうか?」という提案を受け入れていれば、専門家(ガメさんなり、医療従事者なり)が適切に対処したはずだ。バンバン氏が森を彷徨い、カッパに泣き言を言い、他人の家を訪ねる必要は、どこにもなかった。
おばあちゃんの医療拒否が、バンバン氏を不必要な苦難に追い込んだのである。
第六章:「やさしい、いい子」という呪い
物語の終盤、がんこちゃんのおばあちゃんはバンバン氏にこう囁いた。
「きみはやさしい、いい子だよ」
この言葉は、一見すると慰めであり、称賛である。
しかし、私はここに規範の再生産を見る。
バンバン氏は、本来負うべきでない罪悪感を抱き、本来必要でない苦難を経験し、本来すべきでない相談をした。その結果として「やさしい、いい子」と称賛される。
この構造が意味するのは何か。
**「年長者のために苦しむ子どもは良い子である」**という規範の強化である。
バンバン氏は、この称賛によって、自らの行動が「正しかった」と学習する。次に同様の状況が発生したとき、氏は再び罪悪感を抱き、再び苦難を引き受けるだろう。なぜなら、それが「やさしい、いい子」の振る舞いだから。
本来伝えられるべきメッセージは、こうではなかったか。
「あんたはなにもわるくないよ。おばあちゃんが自分で食べたんだから。心配してくれてありがとう、でもあんたが気に病む必要はないんだよ」
しかし、物語はこの方向に進まない。バンバン氏の罪悪感は「やさしさ」として肯定され、氏の苦難は「いい子」の証として称揚される。
かくして、罪悪感の不当転嫁は完成する。
結論:真の被害者は誰か
以上の分析から、私は以下の結論を導く。
第一に、おばあちゃんを弾劾する。
見知らぬ木の実を軽率に判断し、無謀に摂取し、不可解に嚥下した。孫の救援提案を拒否し、医療を拒み、挙げ句に「あっちにいっとくれ」と突き放した。これらすべては、おばあちゃん自身の選択であり、その結果もまたおばあちゃん自身が負うべきものである。
第二に、この物語の教訓構造を弾劾する。
「困ったときは相談しよう」という教訓は、加害者の免責と被害者への責任転嫁を隠蔽している。バンバン氏が「相談」せねばならなかったのは、おばあちゃんの医療拒否のせいである。本来であれば、おばあちゃんが孫の救援提案を受け入れるだけで済んだ話なのだ。
第三に、「やさしい、いい子」という称賛を弾劾する。
この称賛は、年長者のために不当な罪悪感を引き受ける子どもを肯定し、その構造を再生産する。バンバン氏に伝えるべきは「やさしい」ではなく、「あなたは悪くない」であった。
『とどかないこえ』の真の被害者は、おばあちゃんではない。
バンバン氏である。
本来負うべきでない罪悪感を背負わされ、本来経験すべきでない苦難を強いられ、最終的に「やさしい、いい子」として、この不正義を内面化させられた。
「とどかないこえ」とは何だったのか。表向きは、バンバン氏が誰にも相談できずに苦しんだことを指すのだろう。しかし真に届かなかった声がある。
「おばあちゃんが自分で食べたのだから、きみは悪くない」——この当たり前の事実を指摘する声が、この物語のどこにも存在しないのである。